六月号(H28)

主宰の随筆と選後抄  誌友のエッセイ

随筆    ”古壺新酒” 古賀しぐれ

  時の日


   六月十日は「時の記念日」。この「時の記念日」は一九二十年に東京天文台(現国立天文台)と生活改善同盟会が時間の大切さを啓蒙するために制定したもの。
 その始まりは六七一年六月十日(旧暦四月二五日)に国内で初めて時計によって時間を計り、鐘を鳴らしたことに由来する。国内初の時計は《漏刻》という水時計の一種であった。日本書紀によれば、大化の改新の中心人物の一人、中大兄皇子(後の天智天皇)が自ら造り、天皇に即位して十年後、当時の都、近江大津宮で時報を開始したと書かれている。
天智天皇を祭神とする近江神宮では毎年六月十日に漏刻祭(ろうこくさい)が行われる。
近江神宮には漏刻のレプリカや日時計、火時計などが点在する。日本で初めて用いられた漏刻は、三層に分れた枡から漏れ落ちる水の量によって時間を計るものであった。時間を管理するということは、先進国の仲間入りを意味し、漏刻の管理は大宝令により定められ、平安朝末期まで使われていたと伝わる。


今や一秒の何百分の一のタイムを争うスポーツ競技もある時代。人間の生活は人間の造った時間に追われていると言っても過言ではない。漏刻の水のように、ゆるやかな流れに身をゆだねるということも大切。俳句の締め切り時間に追われつつも、四季の移り変わりに身をまかせて、ゆったりとした気分で句作といきたいものである。

 



 雲母の小筥(春の雪・大試験を詠む)    会田仁子選

 

   人を待つこんな日ありぬ春の雪       松葉郁子


会田仁子の寸評

    誰か来ないかと人を待ちつつ、何時もの暮らしと少し違うがこんな日もあるのだなと思っている。
 作者は多忙な日々の計画をこなすスーパーウーマンである。しかしこの日は計画があってのことではなく何となくそうなった一日。『ありぬ』の『ぬ』にその感がある。春の雪もまたは何となく降っている。




    詩ごころを誘ひ出したる春の雪       斉藤千代美


会田仁子の寸評

    「春の雪」とはどのような思いを抱くだろうか?春の雪を見ていると空の静けさ、華やぎ、天上よりの便り、母の影・・等々。俳人である作者はふつふつと心の底から湧いてくるこれらの思いを句にしたくなった。
 春の雪が誘い出してくれた喜びの一句。






心に残る句    森本恭生

 

 新緑や紀の川狭き此のあたり          木村葛南

 
  
   和歌山の船岡句会を指導されていた葛南先生の句である。この句碑が披かれたのは昭和三十六年で私は未だ俳句のはの字も知らない学生時代であった。句碑建立は船岡句会と村人親戚縁者の手作業で行われた。また句碑披きの祝詞は叔父巽居が奏上したのであった。
 その山は大化の改新で畿内の南限と定められた背山の頂上にあり、紀の川流域の中ほどで紀の川平野が広がった中で、唯一川に迫り出した地形となっている。また万葉集に十五首と多く詠われている。
 好天の日は西に紀伊水道の海が光り、東を向くと大和と伊勢の境の高見山が容良く見える風光明媚な所である。


 古の旅人はこの地を通り過ぎる時に振り返り残して来た恋人家族に思いを馳せたのであろう、今もその雰囲気は充分に伝わって来る。
この山の裾に生まれ子供の頃から慣れ親しんだ山であるが、何故か畏敬の念の様なものがある。
また下の紀の川は南岸の妹山と北岸の背山が急に狭まった処の川中に島が在るので、深い淵があったり急流となったりしていて、紀州徳川家の絶好の鮎の御漁場でもあった。
小学生の頃には未だ木材運搬の長い筏が下り、島を過ぎた所が浅瀬となりよく筏が引っ掛かり脱出する手伝いをし小遣いを貰ったりもして川遊びには事欠かなかった。


句碑建立の五年後に句会に入会し、叔父と春夏秋冬、何十回となくこの句碑の前に立ち遊んだが、柿若葉の山の色、新緑に膨らんで狭められた川、足下に見下ろす島、船岡山の椎の花が入道雲の如く湧き起つ頃が最高であった。
私の俳句の原点はこの地この句にあると思っている。



一句鑑賞    山村千惠子

吉年虹二の一句鑑賞 −句集「桜榾」−

 

蛍袋おこす風出て雨あがる    吉年虹二

    強い雨のあと、蛍袋の花はことごとく倒れてしまっている。鐘形の下垂した花は晴れている時はその名通りなのだが、雨滴の重みに可哀相な姿。風が出て、もとの姿をとりもどしてゆく天候の微妙な変化を、平明な言葉で表現されている。



     

 

  

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