四月号(H28)

主宰の随筆と選後抄  誌友のエッセイ

随筆    ”古壺新酒” 古賀しぐれ

   花祭り


  四月八日はお釈迦さまが誕生された日。これを祝う行事を花祭りと呼ぶ。仏生会、灌仏会、降誕会などとも呼ばれている
 お釈迦さまは、およそ二千五百年前、インドの北部のヒマラヤの麓で城主の王子として誕生された。王子が誕生すると、天より甘露の雨が降り注ぎ、王子の身を浄めた。すると王子はすぐに立ち上がり、七歩あゆまれ、《天上天下唯我独尊》と言われたと伝わる。甘露の雨は神々の祝福であり、七歩あゆんだことは、六道、即ち地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天という輪廻の世界を超えた事を意味する。右手で天を、左手で地を指す誕生仏の姿は《天上天下唯我独尊》という言葉に表されるように、「この世に生きるものには皆それぞれの価値があり、尊いものである」という意味を象徴するものと言われる。
 花祭りはインドでは古くから行われていた。中国では四世紀に、日本では推古天皇の頃の六世紀に伝わったと記されている。甘茶を灌ぐようになったのは江戸時代の頃より。釈迦生誕の折の甘露になぞらえての事と言われる。


四月八日は仏さまをはじめ万物が生まれる日と説かれており、種まきの時期としても伝承されてきた。農事や山野での活動時期を迎え、春到来を祝する行事でもあったのである。俳人にとっても花の季節到来。《天上天下唯我独尊》なる名句を授かりますようにと、是非花祭りに参拝したいものである。



 雲母の小筥(春著・寒月を詠む)    松田吉上選

   寒月ややつぱり天が動きをり  小林けい

松田吉上の寸評

    寒月をずっと見上げていた作者。それが雲の間をじりじりと動いているのを見て、はたと気付いた。コペルニクスは矢張り間違っているのだという事を。天動説、即ち、日月星が地球を巡っている説こそ正しいのだという事を。
 発想の豊かな俳人にかかれば、世間の常識など軽く吹っ飛んでしまうのだ。抜群の諧謔味に圧倒された。









    春著きることは女を生きること  藤田弘子


松田吉上の寸評

     女性にとって春著を着るという事は、そんなに大事なことなのか。男には分からないが、ここまで言い切られると、へえ、そうなんですか、と納得せざるを得ない。
 「女を生きること」とは「女であり通すこと」、「女を貫き切ること」。凄まじい女の業(ごう)まで感じさせる強い一句。






 



心に残る句    玉木三重子

 

 好晴の風の色とし花楝          吉年虹二

 
  
  私の住む地域に、老人福祉施設、錦渓苑という会館があります。
 其処で当時未央主宰だった吉年虹二先生御指導の俳句会があるからと誘われ、何も判らないまま平成八年に入会させていただきました。と言っても私はその時五十歳だったので、入館証明カードも無く、十年間は裏門より出入りして通いました。
 先生のお話は初学の私には理解し難いこともありましたが、気さくなお人柄で、本当にいろいろな事を教えていただきました。
 自然豊かな河内長野の草木を愛される先生ですが、取分け、楝と娑羅がお好きだった様に思います。
 毎月通った錦渓苑の裏には川が流れていて、対岸に大きな楝の木が一本あり、時節になると「もう咲き始めているよ」と教えて下さいました。


橋から眺めると、掲句の様な楝の川風が上がってきます。川に迫り出したその淡い色がとても美しく、俳句を学んでいればこそと感動するのですが、なかなか句には結び付きません。何とか一句授かりたいと皆で見た楝でした。先生が御高齢になられ、錦渓苑に通うことも無くなりましたが、吟行会等で他の場所の楝と出合う機会も多くなりました。住吉大社の楝、中之島の楝、現未央主宰古賀しぐれ先生御実家余花朗亭の楝等々。これも俳句を続けている賜物と俳句に感謝です。
あの頃、錦渓句会で一緒に学んだお仲間は今でも未央の誌友なので、俳縁にも感謝しております。
まだ俳句の道は程遠いですが、教えていただいた事を忘れぬ様に歩んで行きたいと思っております。そして今年は久し振りに楝の咲く頃、錦渓苑の側の橋に立ちたいと思っております。






一句鑑賞    雑賀みどり

高木石子の一句鑑賞 −句集「顕花」−

明け方の雨をさかひに春は行く    高木石子

   明け方に聞く花散らしの雨の音は切ない。花の終りが春の終りとなるのだ。「春は行く」という季題には、散りゆける桜への想いが込められている。桜が終ると瑞瑞しい新緑の季節が訪れるのに、人は行く春を惜しんでやまない。

      

 

  

 

 

 

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