杜若
から衣 きつつなれにし つましあれば はるばる来ぬる たびをしぞ思ふ 在原業平が伊勢物語の中で《かきつばた》を詠った和歌。頭文字を抜出すと《かきつ ばた》となる。三河国八橋で詠まれたとされ、愛知県の県花でもある。
京都の北山の花背広河原地区では平安時代初期の文徳(もんとく)天皇の第一子、惟 喬(これたか)親王のお手植えによる《杜若》が当時のまま、今も咲いていると言われ る。
文徳天皇の皇子である惟喬親王と惟仁(これひと)親王との間に皇位継承をめぐっ て争いがあり、惟仁親王の母が時の右大臣藤原良房の娘であったことから、八五八年に 清和(せいわ)天皇に即位され、惟喬親王は都を追われ、京の北である大原や二ノ瀬、 雲ケ畑などを転々とされたと伝わる。その後、惟喬親王は出家して畿内巡歴された折、 広河原地区にお越しになり、お手植えされたのがこの杜若であると伝わる。それより後 は、ここに住む子孫がこの故事を忘れないようにと、《杜若(かきつばた)》という姓を 名乗ったと言われている。「杜若さん」は今でもここに住んで、杜若のお世話をされて いるのである。
皇族の皇位継承に敗れ悲嘆に暮れた惟喬親王を慰めたであろう杜若。杜若のあの高 貴な紫はこのような悲話を秘めつつ美しく今も咲き続けているのだ。
一度京都花背に 赴いて、杜若さんが育てているその杜若を是非とも拝見したいものである。
神の地の神のむらさき杜若 しぐれ
朝もやの晴れ点点と蜆舟 池田幸惠
北川栄子の寸評
乳白色の深い朝靄が薄れ、視界が広がりゆく中、小さな舟が見えてきたのだ。少し離れると蜆舟とバス釣舟の見分けがつきにくいが、屈み込む姿勢から蜆舟だと納得できる。朝が広がりゆく湖は一枚の絵の様に美しく、見るものの目を楽しませてくれる。
暖かや約束の地に降り立ちぬ 田渕さく羅
北川栄子の寸評
約束の地が何処なのかは想像するばかりだが、きっと簡単には行けない遠い所なのであろう。いつか行こうと言う長年の思いが叶い、約束が果たせたのだ。端的に述べることにより却って万感胸に迫る気がする。
雛飾りの思い出について綴ってみました。
先日息子の家族がやってきて、孫二人のお雛さまを飾ってくれました。今年もまた座敷が華やかになりました。
孫は五歳と二歳になる二人です。姉の方はおもちを載せたり扇を持たせたりとうれしそうに手伝っています。妹がさわると、「ダメ」と言って姉さん風を吹かせていました。飾り終えて用意していた雛あられを供えると、二人共それが一番気になるようです。家族揃ってのなごやかな雛飾りでした。
思い起こせば私は男の子二人でしたので雛を飾ることはなかったのですが小さい頃、里の母がやはり雛を飾ってくれました。私の雛は戦後まもなくだったからでしょうか、市松人形だけだったようです。大きな人形に赤い着物を着せ、緑色の帯を結び、着せ替え人形のようでうれしかったのを覚えています。
その市松人形といっしょに飾っていたのが大正生まれの母の雛でした。大きな内裏雛だけでしたがやはり冠を載せたり扇をもたせたりと手伝った記憶があります。お供えにはやはり手作りの雛豆とあさり貝でした。何であさり貝なのかはわかりませんが雛を飾ると母といっしょに磯に貝掘りに行ったものでした。
またそれと同時に飾っていたのが馬に乗った五体の人形でした。これは六歳で病死した兄のものだったようです。母がわが子を偲び、いつまでも忘れる事ができなかったんだと想像します。
この母の雛と兄の五月人形は今私の手元にありますが、いずれこの思い出といっしょに、地域の民具館にでも飾っていただけたらと願っているところです。
吉年虹二の一句鑑賞−句集「狐火」−
子でで虫ルーペの中に目玉出す 吉年虹二
なんともユーモラスな句である。 でで虫の子の目玉をルーペで覗く様子は、まる で好奇心旺盛な少年のようだ。 ルーペで覗いている作者と、その作者を見てい るかもしれない目玉を想像すると、何だか微笑ま しく、ほのぼのとした気持ちになる
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