十一月号(H30)

主宰の随筆と選後抄  誌友のエッセイ

随筆    ”古壺新酒” 古賀しぐれ

  見返り阿弥陀

  

奥山の岩垣紅葉散りぬべし 照る日の光見る時なくて      藤原関雄

   平安時代初期、永観堂を創建された弘法大師の弟子真紹(しんじょう)僧都の徳を慕って、自身の別荘を寄進した藤原関雄の詠んだ歌である。永観堂は《紅葉の永観堂》として千百有余年の歴史を持つ京都有数の古刹である。風光の美しさと共に、伝統的に各時代の仏教の指導的人材を多数輩出してきた。

 

 

   東大寺宝蔵に秘蔵されていた阿弥陀如来。たまたま永観はその尊顔を拝し、尊像の奥深いところから呼び掛ける声を聞き止めた。衆生済度こそがこの仏の本願であり、宝蔵にしまっておくのはもったいないと嘆き、永観が護持し供養する事となった。

 

 

 

 永保二年(一〇八二)、底冷えのする御堂の阿弥陀仏像のまわりを念仏して行道していた永観。すると突然、須弥壇に安置されていた阿弥陀像が壇を下り、永観を先導し行道を始められた。永観は驚き、立ちつくしていると、「永観遅し」と声をかけられ、以来見返りのお姿のまま本尊として奉安されていると伝わる。

 

 

 

 境内には三千本の紅葉が植えられ、紅葉の時期には境内が真っ赤に染まる圧巻の景観。夜間にはライトアップもされる。紅葉の時季、一度は訪ねてみたい京都の名刹。紅葉明りから拝する見返り阿弥陀像は正に極楽浄土である。

 

 



 雲母の小筥(カンナ・踊を詠む)    多田羅初美

 

  カンナには熱帯の風緋を煽る      奥野千草

 


多田羅初美の寸評

 

  カンナを見て熱帯の風とは頷ける。その風がカンナの緋を煽るとは、作者ならではの客観写生である。虚子は、一つの題材の前に長い間座っていたという。人事を介さない掲句は、凝視してこそ授かったのであろう。中の七字に惚れ、迷うことなく巻頭にさせてもらった。
 選者冥利に尽きる句を拝見できた。

 

 

 

 




   踊子は顔見せずみな美人        井上孝夫


多田羅初美の寸評

 

  踊子は深い踊笠を被ている。皆同じ踊笠で、ほとんど顔が隠れてしまう。口元の紅だけが覗いている。ゆえに美人に見えるのである。美人と思いたいのである。そう思えば、踊を見ることが一層楽しくなる。作者はやはり男である。男でなければ、斯かる句は決して授からない。面白く滑稽味がある。





心に残る句    橋和子     

 

 森の国真白き火蛾と夜を共に            橋和子

  「光陰矢のごとし」全くその通りと思う。
八十路の節目の厳しいこと、日々何度も痛感している。健康が何より一番大切。自分にとって今迄気にしていなかった。あれ程の健脚が突然叶わなくなり楽しみの吟行にも参加出来なくなった事が、一番のショック?でも自分と気長く交き合うしかないと言い聞かせている。未央の皆様の元気溢るる御句を羨ましく拝読している。
私にとって心に残る思い出は、自然に抱かれた福島での短い数日の出来事である。ログハウスを建てたとの知らせに二人で出かけた。

 

  緑いっぱいの森の中、静かに建っていた。小さな蟻の大行列のお出迎えに、一瞬おどろいた。丁度えごの花が下向きにひしめき咲き、大きな擬宝玉が其処此処に・・・。朝早くから時鳥に起された。殆ど一日中鳴いている。
小さな流れの音も聞こえる。見上げると青緑した小さな蛙がポトーンと水面に音を生む。
「あれは森青蛙だよ」と教えてくれた。
夜には、珍しく網戸に大きな白い使者がやって来た。それは、羽をひらくと、十センチもあるオオミズアオと言う蛾である。

 


一瞬幽玄の世界へ誘われた様な気がした。
色々なことに思を馳せ、時のたつことを忘れていた。

 


 森ゆうべ飛び来し火蛾に思ひ馳せ       橋和子


こうして、森林浴もして、旅を終えた。
また、一歩一歩ゆっくり自然の中を歩いてみたいと思っている。句友の皆さんと吟行出来ないことが、少し残念だけど・・・。
そして迷句を多くさん詠むことにしようと思っている。

 


一句鑑賞    山田佳音

高木石子の一句鑑賞−句集「顕花」−

 

 

会釈ほど降りて過ぎけり初時雨       石子

 

   古寺の南門を潜り、境内の森を奥へ。と、小雨が降り出した。国宝の本堂で伎芸天を拝し、外に出るともう雨は止んでいた。艶やかな伎芸天と交わした会釈のような、儚くも美しい初時雨。晩秋の情趣深き御寺での一句。

 




     

 

  

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