二月号(H30)

主宰の随筆と選後抄  誌友のエッセイ

随筆    ”古壺新酒” 古賀しぐれ

  梅

  

  東風吹かばにほひおこせよ梅の花

主なしとて春な忘れそ   菅原道真

 

  菅原道真が大宰府に左遷されるとき、愛した庭の梅の花に別れを惜しんで詠んだ歌。後にその梅の木が道真を追って、大宰府まで飛んできたという《飛梅伝説》がある。

 

 


 梅は何よりも先駆けて咲く、なじみの深い花。万葉集には萩に次いで多く、百首以上の梅の歌が詠まれている。平安の頃は花と言えば、桜ではなく梅のことだったのである。原産は日本ではなく中国。遣唐使によってもたらされたという説が最も有力だが、弥生時代の遺跡から種子が見つかっていることから、イネと一緒に渡来したという説もある。万葉の昔、人々の春を待ちわびる心は現在よりも強いものであったのであろう。万葉集には、梅の開花に春の訪れを感じる喜びに溢れた歌が多く詠まれている

  関西にも梅の名所は沢山あるが、先ずどこよりも先駆けて開花する大阪城の梅林へ。それに少し遅れて奈良公園の片岡の梅見へと行きたいところ。ちらほらと咲く梅の道には神鹿の影が行き交う。お水取の参籠がはじまる二月堂界隈の坊では、築地塀より馥郁とした梅の香りが零れる頃となる。いつの世も春を待ち梅の開花を待つ人の心は同じ。浪花へ京へ寧楽へ梅見といきたい今日この頃である。



 雲母の小筥(神の旅・大綿)    会田仁子

 

  石鎚の天狗こぞつて神の旅        徳永玄子

 


会田仁子の寸評

 

  石鎚山は、愛媛県東部石鎚山脈の主峰であり、修験道霊場として四国第一の高峰でもある。神々は翌年男女の縁結びを定めると信じられ、石鎚山に住む天狗達もこぞって出雲大社に参るのである。天狗の縁結びとはユーモアあふれる信仰。

 

 

 




    山の端に雲の退き神の旅        小野一泉


会田仁子の寸評

 

   山を越え谷を渡り一途に出雲大社へ急ぐ神の旅。沸き上がる幾多の雲を「そこのけそこのけ」と退け、晴々とした中を出雲大社へ急ぐ。神といえども何となく人間の匂いがするように思う。想像の楽しさ。





心に残る句    水野芳英     

 

 しぐるるや駅に西口東口      安住 敦

 

 

   この句に出会ったのは、たまたま手にした歳時記をめくっていた時と記憶しています。もう三十年近くも前のことで、こういう俳句もあるのかと思ったものです。作者の代表作の一つで名句だと知ったのはずっと後のことです。


勤め先は初め大阪駅に近い西梅田でしたので通退勤は西口(今は桜橋口)を利用していました。時たま「駅前ビル」の地下に寄り道して帰る時があり、第二ビルでしたらいったん地上へ出てビルとビルの間の道路を通って駅前の広い道路を渡り中央口に入りました。
勤め初めのころのあの辺の大きなビルと言えば阪神百貨店と、道を隔てた西側の某社のビルくらいでした。現在大きなホテルとなっている所にはA書店がありました。平屋建てだったのか二階建てだったのか記憶が定かではありませんが、本を探してグルグル歩き回ったことを覚えています。

 


南口と東口(今は御堂筋口)はあまり通りませんでしたが、地下通路から東口前広場へ出るには地下鉄梅田駅横の階段を上がっていました。この階段は串カツか焼き鳥の店の横をすれすれに通らなければならず、飲み食いしている人の背を掠るようにして上がったものです。
ところで掲句との出会いは勤め先の会社がほかの場所に移転してからです。このように素晴しい句、当時の生活ぶりからも興味深い句に出会ったのにもかかわらず俳句を始めたのはさらに十数年後で、今にして思えばもったいない事でした。
今、月一回第二ビル六階に来ています。懐かしい場所での句会と言いたいところですが、界隈の過度な変わりように唖然とするばかりです。それでも昔のままの店や場所なども残ってをり、楽しみにしています。




一句鑑賞    松田吉上

岩垣子鹿の一句鑑賞−句集「やまと」−

 

 

つなぎゆく一語失ひゐて余寒     子鹿

 

 木立を歩いてゆく男女。立春を過ぎたとはいえ、まだ春の感じはしない夜である。
短い言葉のやりとりが続いたあと、彼女は言った。「今度はいつ逢えるの?」。男は言葉を返せなかった。もう別れる決意をしていたからである。
沈黙の闇の中の二人に、残る寒さがじわりと纏いつく。
色々な場面を想像させる句。これぞ俳句の醍醐味であろう。




     

 

  

Copyright(c)2018biohAllRightsReserved.