薔薇
高貴な香りを放つ大輪の薔薇。花の中の王者と言えるだろう。古今集や源氏物語に「さうび」とあるのは、中国伝来の庚申薔薇(こうしんそうび)から来ている。「ばら」は棘のある草木をさす「薔薇(そうび)」の漢字が当てられたとある。
バラの歴史を繙くと、三五〇〇万年から七〇〇〇万年ほど前にヒマラヤ山脈のあたりに原生していたという説がある。紀元前一五〇〇年にはエーゲ海クレタの遺跡の壁画にバラの絵が描かれている。エジプト女王クレオパトラも愛したというバラ風呂。「バラに伏す」とは贅沢三昧の生活を意味する。一七世紀のフランスでは王侯貴族のステータスシンボルとして、バラは優雅で艶やかな時代を彩ることとなる。ここまでがオールドローズの時代。そして一八世紀後半に中国の庚申バラを交配することにより、四季咲きのバラが登場する。
一九世紀初頭、ナポレオンの皇后ジョセフィーヌは二五〇種類のバラを集めて庭を造り、そこから四八〇〇種のバラを造りだし、バラの図譜を遺している。一九世紀後半には「ラ・フランセ」が誕生。モダンローズの誕生となり、現在に至る四季咲き、大輪のバラの登場となったわけである。
俳句には《薔薇五月》という季題がある。一年でもっとも過ごしやすく華やかなる季節。王侯貴族よろしく薔薇の咲くガーデンでアフタヌーンティーといきたいところ。さて、そのお相手は? ヒ・ミ・ツ・・・・。
夫知らぬ妻の生活薔薇の午後 しぐれ
京町家端唄三味の音猫の恋 森 美江
松田吉上の寸評
街騒を少し離れた京の下町。一軒から三味に乗せた端唄が聞こえる。しかし、そのあでやかな声とは別に、町家の外では恋猫の裏声。「これ?ミーチャン。早くお帰り?」と御師匠さんの声も聞こえそう。
端唄、三味の音、と叩き込み、さあどう続くかという所で、「猫の恋」とさらりと躱す。この心憎いほどの二句一章が、これ程上手く嵌った句も珍しい。一句に溢れる艶っぽさ。男では作れない。
薄氷やあと一人待つ登校班 水野芳英
松田吉上の寸評
春とは言え、「薄氷」の張る寒い朝である。まとめ役の責任感の強い六年生が、集団登校の集合時間に来ない一人を待っている。朝の寒さ、待ついらだち、待たせる子供ののんきさ。季題の「薄氷」を含め、たった十七文字が朝の集団登校という一つの事象をくっきりと描き出している。特に「あと一人待つ」という表現には、何とも言えぬ情感がある。子供達を見守る作者の視線は暖かだ。
私も含めて、人はやはり、ええ格好したり、人からはいい人と思われたいとか、うぬぼれたり、あるいは逆に人を嫉妬したり、ねたんだり、人をうらやましいと思ったりしてしまう。
これが私なんですと、そのままの自分でいる事。着飾る事なく、気負う事なく、いつもの「ふだん着」の私でいる事。これは本当に難しく、まさに至難の業だ。
いつか見た宮沢りえさん主演の映画のなかで、彼女が余命二カ月を告げられる。すると彼女はその日から、死ぬまでに、絶対やるべきことを決め実行して行く。
私はというと、ふーんそうなんやと「ふだんの心」で冷静に受け止めることはできない。どうしょうと、慌てふためき、「なんで私やねん」と、泣き、叫び、わめき散らすことだろう。死ぬまでにやるべき事なんて考えも及ばない。
何があっても動じる事なく、常の心で、淡々とまさに「ふだんの心」でその日その日を過ごして行く。これもまた非常に難しく至難の業だ。
小学校の時、作文の時間に先生から、見たまま、感じたまま、思ったままを書けばいいんですよ、と教わった。
俳句もそのように教わった。なんやそんな事かと思っていたのが、大きな間違いである。
何とか選に入ってルンルン気分で帰る事が頭をかすめる。ええ句やん、と褒められたいと思う。
真っ白な「ふだん着でふだんの心」で、俳句を作って行きたいと思う。これもまた非常に難しく、本当に至難の業だと思う。 「ふだん着でふだんの心」ひょっとしたらこれは、お釈迦様の言う悟りの境地かもしれない。
高木石子の一句鑑賞−句集「顕花」−
風船の紙一枚の重さつく 石子
幼児と庭で紙風船をついておられたのであろうか。紙風船をつくと、丸い形が少しへしゃげる。そして手の平には五月の風を纏った紙風船の心地よい重さが伝わってくる。
五月の空へふわりと浮き上がる紙風船と笑い声が聞こえてきそうな優しい一句である。
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