六月号(H30)

主宰の随筆と選後抄  誌友のエッセイ

随筆    ”古壺新酒” 古賀しぐれ

  紫陽花

  

  雨に似合う花、あじさい。あじさいの語源は、「藍色が集まったもの」を意味する「集真藍(あづさい)」が変化したものとされる。「あづ」は集まる様を意味する。特に小さいものが集まることを意味し、「さい」は「さあい」の約、「さ」と「藍(あい)」の約で、青い小花が集まって咲くことから、この名がつけられたとされる。

 

  漢字で「紫陽花」と当てられたのは《和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)》の中で、撰者の源順(みなもとのしたごう)が中国白居易の詩にでてくる紫陽花をこの花と勘違いしたことによるとされる。中国の紫陽花は紫色のライラックらしき花だったようであるが、 源順の勘違いが現在のあじさいの漢語表記として残っているのも面白い。 花の色が変わるので ,「七変化」「八仙花」とも呼ばれる。

 

 

 では何故あじさいはさまざまな色に咲くのか。土の成分が酸性だとアルミニウムイオンが溶け出し、あじさいの色の成分であるアントシアニンと結合して青色となる仕組みだそうで、これが酸性、アルカリ性で色が変わると言われること。その他にも補助色素、開花からの日数など、さまざまなことが影響して色が変わるそうなのである。花びらに見えるのは装飾花といわれ、萼(がく)が変形したもの。原産地は日本なのだそうである。

 

「水の器」という意味の「ヒュドランゲァ」というラテン語の学名がついている。紫陽花の鮮やかなブルーや紫は、梅雨空にぴったりの花と言えるだろう。雨も亦楽しからずや。俳人ならではの楽しみとして、梅雨を詠ってゆきたく思う。


家舟の細江に水漬き濃紫陽花   しぐれ

 

 



 雲母の小筥(ミモザの花・踏青)    多田羅初美

 

  青き踏む砂漠の旅を戻り来て        山田佳音

 


多田羅初美の寸評

 

  私も嘗て加藤まさをの「月の砂漠」の詩に惹かれて敦煌の砂漠へ旅吟をした懐かしい思い出がある。日本には四季がある。春夏秋冬がある故俳句が生れる。作者は帰国して砂塵の上がらない、我が町の青きを踏みて、詩心をとり戻したのである。母国とは遥かなる旅をしてこそ思うものである。読者を唸らす句。

 

 

 

 




   十字架を拝す身に降る花ミモザ       西脇英恵


多田羅初美の寸評

 

  十字架を拝するのであるから、教会であろう。聖堂や教会には、なぜかミモザの花が咲いている。又ミモザの花がよく似合う。
ミモザの降る下に長い祈りを捧げたのである。イエスが拝す身に花ミモザを降らしてくれたに違いない。
三十路である作者の未来が楽しみである。





心に残る句    古田几城     

 

 秋の夜や机上の一書語り出す      古賀しぐれ

 

 

  暑い夏が過ぎ、秋の夜のほつと心も落ちつく涼しさの中、幾度も読み古りた机上の一書を読み返す。すると、今まで気付かなかった言葉が、心の中で駆け巡り、生き生きと立ち上る。

 

誰にもそんな経験が有るのでは?
私も若い頃から本を読むのが好きでした。
最近は葉室麟の時代小説に心酔していますが、氏が亡くなられたと聞き、もう氏の新作が読めないのが残念です。

 


俳句に縁をもてましたのは、近藤六健氏がある句会に誘って下さったのが始まりです。
たしか一昨年の十一月からだったと思います。当初は五七五に言葉を乗せるのが精一杯でした(笑)。
やがてその句会から色々な結社の人との知己が出来、その縁で「未央」にも来させて戴いています。


 未央の皆さんが真剣に句に取り組まれている姿は他の結社には無い緊張感が有り、私などはまたまだ甘いなと心を引き締めております。句歴二年目で未だよちよちですがこれからも御教授願います。


一句鑑賞    狩屋可子

岩垣子鹿の一句鑑賞−句集「やまと」−

 

 

石仏は蛍袋に囲まれて    子鹿

 

    蛍袋は釣鐘草とも呼ばれ、梅雨の頃に伏して咲く花である。峠や辻村境の道端には風化しかけた石仏が蛍袋に囲まれて歳月を重ねている。「囲まれて」と終止形を用いずに余韻を残し、六月の石仏の様子を読み手に託す。

 




     

 

  

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