放生会
放生会は古代インドに起源をもつ。《金光明最勝王経》長者子流水品には、釈迦仏の前世であった流水(るすい)長者が、大きな池で水が涸渇して死にかけた無数の魚たちを助けて説法したところ、魚たちは三十三天転生して、流水長者に感謝報恩したという本生譚が説かれている。また《梵網経》にもその趣意や因縁が説かれている。
仏教儀式としての放生会は、中国天台宗の開祖地智が、この流水長者の本生譚によって、漁民が雑魚を捨てている様子を見て憐み、自身の持ち物を売っては魚を買い取って、放生池に放したことに始まるとされる。寺院で行われる放生会の基ともなっている。
日本においては、天武天皇が六七七年に諸国へ詔を下し、放生を行ったという初見がある。近畿地方を中心とする殺生禁断の地が設けられ、定期的に放生会が開かれていたようである。聖武天皇の時代には、放生により病を免れ、寿命を延ばすとの意義が明確にされていた。
例年九月十五日に石清水祭の中の儀式として執り行われる。かつては京都の年中行事の中でも重要な祭であったが、明治期の神仏分離により禁止され、百三十数年ぶりに神仏習合として儀式が復活、現在も続いて行われている。
石清水八幡宮なら近い。一度出向いてみたいものである。草木虫魚はみな句材としては欠かせないもの。生きとし生けるものに畏敬の念を抱きつつ、句作してゆきたく思われる。
男山秋の今日とや契りけん河瀬に放つよものうろくづ 知家
吊橋を引き返しくる夏帽子 三木智子
北川栄子の寸評
吊橋と言うと、祖谷のかずら橋が一番に思い浮かぶが、それだと句からもっと恐いイメージが伝わってくる筈なので、こちらは万緑の中にかかる見映えの良い吊橋なのであろう。
簡単明瞭な所が、夏帽子の季題にマッチしていて、自由に想像を膨らませる事が出来る。吊橋を引き返す裏には、景色を楽しみながら渡り終えた事も含まれている。
仁王立ちして穂高見る夏帽子 安部州子
北川栄子の寸評
穂高は、北アルプスの中央部に位置し、前穂高、西穂高、北穂高、奥穂高、涸沢岳を総称して穂高と呼ばれている。これから登らんとする心意気なのか、見ているだけで満足する傍観者なのか、どちらにしても、小さな人間が大きな山に向って精一杯背のびをしているように見える所が、面白い。
子供が幼稚園の頃、さくらんぼを食べた後に種を庭に埋めたらしく二本芽が出た。一本はお友達にあげた。当時は、芯止めとか整形をする術も知らずただ大きくなるのを喜んでいた。近頃はあまり見かけなくなったが、ナポレオンという種で大屋根に届く程大きくなり可愛いい実も生りだした。二階の窓から実を採る様な有様で何とも木が大き過ぎる。その内に「桜に毛虫」の言葉通り、木に隙間のない程毛虫が付いた。家の中に入るのではと恐怖を覚えたが、翌朝恐る恐る雨戸を開けると不思議な事に毛虫は一匹もいなく消えていたが、結局あれこれと考えさくらんぼの木は切ってしまった。
十年程前、園芸店で偶然見かけ、さくらんぼの木を買った。地植は懲りたので鉢植にした。毎年花は咲くが実は生らない。如何せん、一本では結実しない種だった。毎年見事な花を見るだけで過ぎている。先日他の用事で園芸店に行ったが、見事に実のついたさくらんぼの木がずらりと並べられていて思わず衝動買いをしてしまった。
持ち帰り軒下に置いていたが、日毎に実が減っている様な気がする。見るとあちこちに嘴の跡が付いている。午前中に食べた実の半分を午後に又食べに来るようだ。さくらんぼの種子だけツンと枝に残っているのを見ると几帳面な鳥もいると感心する。鳥も遊びに来た時は声を出しているが実を食べに来た時は黙って食べて行く。
足袋裏に酒ふきかけて祭獅子
狭庭の移ろう景色を楽しみ、訪い来る鳥や蝶に心安らぐ。お友達にあげたさくらんぼの木には沢山実が生っていたが、その木も今は切られてしまった。葉隠れに一つ残っていたさくらんぼも無くなり人と鳥の楽しんださくらんぼの季節は終った。
岩垣子鹿の一句鑑賞−句集「やまと」−
爽やかや言葉躍つてゐる手紙 子鹿
最近の通信手段は電話やメールで簡単に済ませてしまう。それも今どき風の簡単日本語でだ。この手紙を書いたのは誰で誰に宛てたとも解らないが、手書きの重要さに目覚めさせられる。虚子記念文学館にある子規の虚子宛の手紙等は墨筆で手書きであるからこそ遺っているのであり、活き活きと差出人の心情を吐露している。心を動かす言葉を綴ってみたいものだ。
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