古賀しぐれの評
探秋会の二日目は東福寺の吟行であった。京都の五山の一つである広大な禅林。古来より紅葉の名所として名高い。その枯山水の庭は究極の美であった。市松模様になった苔と石の造形。そこに配置された石一つ一つに深い意味が含まれているようでもあった。無の心で以って庭と向き合う作者。その石庭の石との存問の時間。俳句を作るというよりも、究極の美を鑑賞して、空っぽになった心から、句心が生まれてくるのをじっと待っているという感じではなかったかと思われる。「石に言問ひ」の表現がそのことを思わせる。禅と俳句。相通じる美というものがあるのだろう。
古賀しぐれの評
秋祭は稲の収穫に感謝し守護してくれた田の神が山に帰るのを送る里祭である。高々と舞う鳶の輪に収まるほどの島。小さな小さな島である。連想するに、琵琶湖の沖島ほどの島かと思われる。半農半漁の島では、みんなが顔馴染み。今年の収穫を祝ってのささやかな祭なのであろう。俯瞰したような一句が穏やかな島の暮しを浮かび上がらせる。具体的だが詩的な表現が小さな島の秋を端的に伝えている。
古賀しぐれの評
巻頭にもあった東福寺の伽藍。大伽藍が立ち並ぶ中に、最も古い東司があった伽藍が遺っている。「東司」は禅寺での便所のこと。戒律の厳しい禅寺では東司を使うにも、さまざまな作法が設けられていたのだ。「花八手」という庭裏に地味に咲き続ける季題と、禅寺の厳しい暮しとが絶妙に響きあっている。現代では考えられない禅林の暮しがこの一句より偲ばれる。
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福本めぐみの評
庭で収穫した柿の実をあまり美味しそうだとは思っていなかった作者。売っている物にくらべて小さかったり、無骨だったりして、誰もあまり、手を伸ばさなかったのかもしれません。でも食べてみると意外に美味しくて、今まで庭木という風景でしかなかった柿の木がにわかに身近なものになりました。
福本めぐみの評
「もみじ」という唱歌がありますが、今の子どもたちはあまり歌わないかもしれません。その中に「ぱっと広げた赤ちゃんのお手々のようでかわいいな」という歌詞があります。作者もまたそのように感じたのです。そして、親しく「もみじさん」と言ったのです。
福本めぐみの評
いねかりという、とてもしんどい労働をしたあとのご飯がおいしいという、当たり前の感動を素直に感じることのできる経験は大切なことです。それを素直に言葉にするということは心が豊かになるということです。
さくらんぼの句
さくらんぼの句 福本めぐみの評
秋晴やずーっと勉強ばかりして 中三 本城由比奈
群れの後遅刻してきた渡り鳥 中一 山村真市
庭の柿思った以上の甘さだな 小五 山村隼士
紅色で手のような形もみじさん 小五 三原勇真
秋晴につらなるタワー大かっさい 小五 倉田 晄
いねかりのあとのごはんはおいしいよ 小四 難波美帆
どんぐりはぼうしがあるとラッキーだ 小四 山村竜暉
秋の朝ふとんのつなひきとりあいこ 小三 三原咲月
大声でうんどう会をもり上げる 小二 倉田智浩
かまきりの顔は三角目は丸い 小二 難波孝太朗
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霜の花
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